2月10日(水)
1918年(大正7年)5月19日、午前1時5分頃だったらしい。
当時の東海道線の碑文谷踏切で、その事故は起きた。
遮断機が開いていたので、人力車が踏切に侵入、
そこに貨物列車がさしかかり、人力車をはねとばしてしまった。
車夫は助かったが、客は死亡。
二人の踏切番がつい居眠りをした魔の瞬間だった。
そこには、劣悪で過酷な労働条件があった。
ともあれ、それを悔いた二人の踏切番は、一時間もたたないうちに自ら命を絶って過失を償う。
官給の制服制帽が血で染まらないようにと、きちんとたたんでの自死だったという。
二人の律儀な死に、現在のお金で1千万円以上の弔慰金が集まった。
それを歌にしたのが、添田唖蝉坊だ。
「ああ踏切番」という。
二十余年を碑文谷の 踏切番とさげすまれ
風のあしたも雨の夜も 眠る暇なき働きの
報いは飢えをしのぐのみ わずかに飢えをしのぐのみ
労力(ちから)の値(あたい)安き世の
勤めの身こそ悲しけれ
『日本鉄道歌謡史 1 鉄道開業~第二次世界大戦』松村洋著(みすず書房)では、
こうやって、鉄道と歌とを絡ませながら日本の歴史をつづっていく。